はじめまして!
「全部任せているから安心!」といわれる、松阪市で、リフォーム会社を経営している中原喜之(なかはらのぶゆき)です。
朝早くから夜遅くまで農家の仕事。農家の仕事がない時期は鉄筋工や土木作業の日雇い、コツコツ、愚痴をこぼさず、我慢と辛抱の人生を歩んできた父の後ろ姿を見て育ってきました。
そんな両親を見習い「そこまでしてくれるんだ」とお客さんによろこんでもらえるように、まい進していきたいと思います。

中原善之

なぜわたしが【責任】を使命に掲げているのか、そのわけを聴いていただけますか?

「とうちゃん、よくがんばってるなぁ」

両親は戦争で跡取りの居なくなった親戚の家に、養子、養女として入り結婚しました。慣れない家、慣れない土地、そんな環境で、まわりの目を気にしながら、我慢と辛抱の人生を歩んできました。
朝は、早くから田畑へ行き、夜は、蚕の世話。とくに、蚕は、温度管理が細かく、たえず見守る必要がありました。
父は農家の仕事がない日は、鉄筋工の日雇い、母も日雇いの土木工事で工事現場へ、愚痴一つこぼさず、歯をくいしばっていました。

手塩にかけて育てた蚕の袋を、トラックの荷台に山のように積み、その上に乗り、村の仲間と出荷する父の姿がとても印象的でした。
蚕の袋の上に乗り、トラックの荷台で、父の安堵の表情を見ると、
「とうちゃん、よくがんばってるなぁ」と頼もしく思いました。

4、5歳のころ、強く記憶に残っていることがあります。冬、籐で編んだ乳母車に乗せられて、田んぼに置かれていたことです。真冬なのに、すすきのかげで、寒さや風は感じず、とても穏やかでした。
わたしは、黙々と畑仕事をする母の背中をずっと目で追っていました。寝ているので背中が痛くなるのを我慢しながら、「早く終わらないかなぁ」と思っていました。
ただ、母の背中を見ているだけで、妙に安心感があったのです。

「これって、どうなっているのかなぁ?」

幼稚園のころ、家に帰ると7歳年上の兄しかいない。なんとも言えない寂しさを紛らわすため、あぐらをかいて座っている兄の膝にちょこんと座っていました。兄は、いつもいつもうっとおしいなぁ、という表情をしていましたが、わたしは、妙に安心感がありました。

小学校1、2年生のころ、夕方になるとしょっちゅう熱を出していました。父の背中に負ぶってもらい、バイクで少し離れた街にあるお医者さんに連れていってもらいました。熱にうなされながらも、父に背中に負ぶってもらっていると、安堵の気持ちでした。

両親がいつも家にいないため、満たされない気持ちから不安気だったわたしも、高校に入って変わりました。4、5歳のころから父が農機具を直すところを見て、「どうなっているのかなぁ。自分もさわってみたいなぁ」と思っていたのです。
そんな想いから、高校では、機械部に入りました。
一見複雑な機械ですが、むき出しの構造を見ていると、
「これって、どうなっているのかなぁ?」
「これ、どんな動きをするのかなぁ?」
「おもしろいなぁ」
と機械いじりに夢中になりました。

エンジンをばらしたり組み立てること。また、エンジンの機嫌がわるいと、かけなおしたりオイルをさしたりすると、直ることが無性に楽しかったのです。

そして、機械部の仲間で、ゼロからホーバークラフトを作りました。図面を描いたり、エンジンを探してきたり、プロペラを作ったりして、人一倍細かなところまで工夫して作ることに、よろこびを感じていました。
完成したホーバークラフトが、実際に浮上いたときには、「やったあ!」という達成感がありました。



「もっとお金を稼ぎたい」

高校卒業の時、なかなか就職先が決まりませんでした。親戚のコネで、島根県の農機具メーカーになんとか就職できました。

2年目、島根県から仙台に転勤になりました。手先が器用で、農機具のことがよくわかっていたので、お客さんには気に入られていました。
ところが、そのときの上司が仕事をしないのを見て、自分はこんなに仕事をしているのに、と不満でした。なにかにつけて、不満に思っていたのです。

また、給料も安いし、ボーナスが出ないことで、無性に「お金を稼ぎたい」と思い始めました。

そんな時、新聞の拡張販売員の仕事に「月30万稼げるからどうですか?」と勧誘されました。

「なにかしたい!」という欲求と「もっとお金を稼ぎたい」という欲求から、会社に辞表を出しました。

それを聞いた両親が、コネで入ったということもあり、松阪から仙台まで飛んできました。「やめるなんてこと、やめろ!」ときつく言われました。

両親に言われ、一旦出した辞表を取り下げました。その後、また、後先考えずに、辞表を提出、会社から慰留され、辞表を取り下げということがありました。
その後仙台から名古屋の部品倉庫の仕事に転属になりました。定年退職前後の年配者しかいないような中で1年を過ごし、便利屋が稼げるということを知り、会社を辞めました。
なにか明確な目的や目標があったわけではありません。ただ、なにかに飢えるように、「お金を持てれば…」「お金さえあれば…」そういう衝動にかられて、便利屋になりました。

”電話一本なんでもおまかせ。
困ったときのお助けマン。    便利屋一番”

家族3人で

家族3人で

「任せてるんだから、ちゃんとやれよ」

22歳のとき、便利屋として独立。父親譲りの手先の器用さと細かなところに気がつくことで、忙しいながらも、順調に売上は伸びました。

お客さんからは「よく細かいところまで気がつくなぁ」とか「うちに中原さんが一人いたら、便利よねぇ」と言われ、重宝がられていました。

ただ草刈りや、小さな修理工事、工務店の応援工事など、体がきつくなるばかり。

45歳のとき、どこかに絞って仕事をしようと思いました。そこで、水回りのリフォームに絞り、緊急で困っている人のために仕事をするように方向転換しました。

水回りのリフォームも一人で、5,000万円まで売上げるまで行きました。もうこれ以上は一人では限界だと思い、腕のいい現場管理ができる人を社員として雇いました。結果、売上もさらに8,000万円まで伸びていきました。

リフォームに方向転換して10年、55歳のとき、お客さんからお怒りの電話がありました。

塗装工事が、雨で長引き工期が延びること、二階の壁が痛んでいて壁を直してからの塗装になり、さらに時間がかかる事、このことをお客さんにわかるように現場管理の人間が伝えていなかったのです。

工期が延びるとは聞いていないのに、なんの連絡もなく、しかも工事は終わらないことに、お客さんは、お怒りだったのです。

わたしは、すぐに、手土産を持って、現場管理の人間と一緒にあやまりに行きました。

ご夫婦とも、鬼のような形相で、
「どんな工事やってんだ。こんなもの受け取れないから、持って帰ってくれ!」
と、手土産もろとも突き返されました。

わたしは、玄関先で、とっさに土下座して
「申し訳ありませんでした!」
とひたすら頭を下げました。

それでも、お客さんは、
「もういい、帰ってくれ!」
とお怒りは、おさまりません。

そんなお客さんとわたしのやり取りを、現場管理の人間は、"おれは関係ない"という風に、わたしの後ろで立っていました。

お客さんの怒りが収まらないので、その場をあとにしました。

現場管理の人間に対して、

「専任で任せてるんだから、ちゃんとやれよ」

と心の中で思っても、言葉にはならない。

「あいつなら、仕方ないよなあ…」
とあきらめて、なにもいうことはしなかったのです。

このような出来事が何回かあり、最終的に、現場管理の人間は会社を辞めることになりました。

「なぜ、私が【責任】を使命と掲げているのか?」

社員がやめて、便利屋を始めたときと同じ一人になって、はじめて気づきました。「任せたから」といって、いろんなことを見て見ぬふりをしてきたこと。

いいたいことがらあるのに、いってもわからないだろうなぁ、とあきらめていた。本当は、腹を割って話すと、なんと言われるのか、こわかったのです。

小さいころから、さびしさから飢えと欠乏感につきまとわれていました。なにか”して欲しい!”と思って手に入らないと、”してくれなかった”と満たされない気持ちになっていました。いつしか、自分ではやらず、相手に期待するようになっていたのです。

「現場を任せているんだから、やってくれるだろう」
「いわなくても、お客さんにはちゃんと伝えているだろう」

それで、社員に任せっきりで、いうべきことを言わないようになっていたのです。

社員が辞めて初めて、自分が社長として、お客さんにどう対応して欲しいのか?会社をどうしていきたいのか?本音を伝えていないことに気がつきました。

そうなんです。わたしには、自分が責任を持つということが欠けていたのです。

慣れない家、慣れない土地に愚痴ひとついわずに淡々と生きてきた両親。

誰もやりたがらない農地の調整役を引き受けて、一軒一軒調整しに回った父。

朝は田畑、夜は蚕の世話。土木作業の日雇いやブロッコリー等野菜の出荷作業、家族のために働きづめだった母。

自分の置かれている立場を引き受けて、淡々と責任をまっとうした両親。

そんな両親のことをあらためて振り返り、自分に責任を持つということが欠けていたことを痛感しました。

 

 

そこで、わたしは、【責任】を使命と掲げることにしました。

それからです。まず、お客さんに迷惑をかけないように、現場を円滑にまわせるように、社員を採用することにしました。人柄のよいやる気のある25歳の親戚の子に、うちで仕事をしないか、と声をかけ社員になってもらいました。

親戚の子とは、腹を割って話し、将来、会社を継ぐ意思も確認し、専務となってもらいました。
すると、お客さんとの関係には変化が現れてきたのです。あるお客さんから言われた言葉がとても印象的でした。

「以前、地元の駅伝のコース案内のお手伝いして頂いた。あのとき、大雨なのに現場を離れず、ゴミの収集小屋の中に避難してたのが印象的やったなぁ(笑)。そこまでしてやってくれるんやと思ったんです。」

「この家を建てたとき、大工さんに柱を太くしてと言ったら、変な出っ張りが出て不便だったので、『なんとかならんのか…』とずっと思っていたのです。
それを、中原さんは、大変なことでもちゃんとやってくれる。」

「どこに頼んだらいいか困っていたけど、中原さんに全部任せているから、安心しています。なんでも自由にやってもらっていいわ、みたいな感じで(笑)」

このようなことを言われるようになって、改めてここまでやってきた事がまちがっていなかったと、うれしくなりました。

お客さんとも腹を割って話、できるだけ深く話を聴くように心がけるようになりました。本当はどんなことをしたいのか、細かい所まで気を配り、使い勝手やリフォーム後の事も出来るだけ考えて提案させて頂くようにしています。

その結果、お客さんからこのように言われるようになりました。

「そこまでしてくれるんだ。」
「大変なことでも相談しやすい。」
「いろいろ思ったことを言いやすいので、頼みやすい。」

どんなことにも逃げずに、責任を持って引き受けると決めたことがよかったなぁと思います。

これからは家のリフォームや塗り替えの事で、
「いろんなことを相談したいけど、いい人いないかなぁ」
「大変なことは誰に相談したら、いいだろう」
「最初に、不便になるからって提案してくれたらいいのに」

そんなことで、悩んでいるお客さんの笑顔のために、心を込めて、【責任】を持って仕事をします。

最後になりますが、天国のとうちゃん、入院中の母ちゃん

いま、振り返ってみると、小さな兄貴とおれのために黙々とがんばってくれたことすごいなぁ、としみじみ思います。

本当に、ありがとう。

 

    
 株式会社パワープロ住健 代表取締役

お客さんとも腹を割って話、使い勝手やリフォーム後の事も考えて提案させて頂くようにしています。